浄土宗 松宝山 法授院

長 泉 寺


長泉寺縁起

 陸奥会津耶麻郡加納荘百木郷村松新田邑松宝山法授院長泉寺は会陽城を去ること四十里にして乾の方に当たるなり。

 そもそも開基の縁由を尋ねるに、後水尾院の御宇、元和八年(1622)前太守蒲生忠郷朝臣の時、宗誉授外上人が草創の地なり。上人は常州久慈郡大門郷の産にして幼童の頃より出家の風儀を慕い、一五歳の春、同所瀧上山枕石寺に身を投じ、白誉恵宗上人に謁し剃髪染衣の身となる。後、はじめて武江三縁山増上寺大僧正感誉存貞上人の獅子座下に至り、浄家相伝の功を積んで徳を累ね、円戒宗脈及び布薩大戒等咸く相承して加号を蒙る。即ち、真蓮社宗誉上人法阿長松授外和尚と名づけられる。

 天正の頃より弘法のため都を離れ黒衣錫杖に身を固め、念持仏阿弥陀木像を背負いて諸国を遍歴し給う。(此の尊像は古仏にして左右の御手失く弥陀か地蔵か見分け難き故、俗に肩抜地蔵と称え奉る。旱魃には衆人清浄水を献じ一心に名号を唱えて祈願すれば霊験あらたかなりと。往昔当寺の本尊なり。)

 頃は慶長年中(1596〜)、上人奥州巡錫の砌、念持仏の不思議霊夢に依り此の地に留まり、専修念仏一行三昧を策励し、仏祖の加被、諸天善神の擁護を念じ、天然の時節を待ち給う。

 而して此の地は、元来原野なり。元和六年(1620)川沼郡金上村の住人上野庄左衛門と云える仁あり。又耶麻郡吉志田村の住人瓜生庄右衛門と云う仁あり。此の両家何れも郷士の格にして、此の地を墾し開発して村松新田邑と名づく。是れに依り領主思召を以て東西の長となす。此の両人、授外上人の教化道徳を称美し帰依渇仰して、元和八年上人の望みを感じて大壇越となり、一宇の精舎を建立して上人を開山鼻祖となす。即ち松宝山法授院長泉寺と号す。

 蓋し、松宝とは松は則ち「四時不易」緑樹を露わし、法授は法阿授外の両二字を執り、長泉の二字は泉長く澄んで濁らず、是れ即ち鎮防火燭、法水盈溢なり。而して上人、春秋七十有三歳老躰に及び元和九年(1623)春三月十五日頭北面西、合掌念仏裡に形容睡るが如く示寂し給う。

 当寺に旧縁古書有れども字体磨滅して分明ならず、其の五三を拾い、且つは古翁の伝語に信せて誌し、後鑑に備う。

  文政五年(1822)三月

   長泉寺二十六世 一誉運能 誌す



長泉寺本堂


北向観音堂